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詩篇103篇のデボーション、キリストを通した神の憐れみを強調
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詩篇103篇のデボーション、キリストを通した神の憐れみを強調

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「主はわれらの罪にしたがってわれらをあしらわず、われらの不義にしたがって報いられなかった」(詩篇103篇10節、KJV)。

詩篇103篇で、ダビデは主の慈しみと、契約に基づく変わらぬ愛を喜びたたえている。その目は、自らの成功や欠点ではなく、神がどのような方であるかに向けられている。この詩篇の背景には、イスラエルと主との契約、そして絶え間ない不従順の中にあっても、民が繰り返し経験した神の真実がある。

荒野で過ごした年月から王政の確立に至るイスラエルの歩みを通じて、神は御自身が「憐れみ深く、恵みに富み、怒ること遅く、慈しみ豊か」であることを示された(詩篇103篇8節、出エジプト記34章6節)。ダビデは、主が厳格な正義だけに従って裁かれていたなら、民は耐えられなかったと認識していた。神はその代わりに、慈しみをもって彼らに応じられた。

したがって詩篇103篇10節は、神の聖さと恵みの深い関係を示している。神は完全に聖なる方であるため、罪を単に見過ごすことはできない(ハバクク書1章13節)。それでも神は、民の悪行に相応する罰を与えられない。その憐れみは、罪を退けずに済ませるものでも、罪を容認するものでもない。

その完全な啓示は、人類のために罪の刑罰を引き受けたイエス・キリストを通して現れた。イザヤは「主はわれらすべての者の不義を彼の上に置かれた」と預言した(イザヤ書53章6節)。その後、パウロは「われらがなお罪人であった時、キリストがわれらのために死なれたことによって、神はわれらに対する御自身の愛を示された」と記した(ローマ人への手紙5章8節)。

キリストの十字架上の死は、正義の要求を満たすと同時に、憐れみへの道を開いた。神からの赦しは正義を脇に置くものではなく、キリストを通して正義を成就するものである。

今日の信者は、神に受け入れられることが人間の功績ではなく、神の恵みによると知ることで確信を得られる。誰にでも後悔や失敗、不従順な時期がある。それでも聖書は、「もしわれらが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方であるから、われらの罪を赦してくださる」と約束している(ヨハネの第一の手紙1章9節)。

このように豊かな慈しみを受けることは、他者にも恵み深く接する責任を生む。パウロは「互いに親切にし、心優しく、神がキリストのゆえにあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい」と教えている(エペソ人への手紙4章32節)。神から受けた憐れみは、日々の生活の中で示す憐れみとならなければならない。

ダビデのメッセージはさらに、信者に対し、消えずに残る罪悪感を感謝へと置き換えるよう促している。自分が受けるに値する結果に心を奪われ続けるのではなく、神がキリストを通して惜しみなく与えてくださったものを喜ぶことができる。神の忍耐、赦し、そして永遠に変わらぬ愛は、日々経験される。

主の慈しみは、人の過去が人生を決定する最終的な権威ではなく、神の恵みこそがそうであると宣言している。神が、われらの罪に相応する扱いを差し控えてくださったと理解することは、礼拝と謙遜、そして感謝に満ちた従順を生み出すはずである。主をほめたたえよ。

記事提供: Jamaicans.com · 初出 .

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